(イドメニキャンプ活動記②はこちらから)
今回は、EU加盟国のギリシャの地で実際に起きていた、難民がキャンプ生活を送るうえで苦しめられている5つの問題について、書いていきます。
難民キャンプにおける5つの問題
私はイドメニのキャンプだけでなく、近くにある他の2つのキャンプ(Ekoキャンプ、Hara Hotel キャンプ)や軍営の公式キャンプでも活動していましたが、ここでも同じ問題が見て取れました。
- 衛生問題と病気
- 物資不足
- 民族間の争い、治安
- 教育
- 希望の消失
衛生問題と病気
最初は、衛生問題と病気です。ギリシャの中では比較的雨が多い地域である北部に位置するイドメニは、同時に水はけの悪い土地でもあるため、一度雨が降るとキャンプ全体が水没します。
私が最初、2016年3月に着いた時は、1週間雨が降り続いた後で、ここに住む難民は皆、汚い服を着て、壊れた靴を履き、または靴すらない人々で溢れていました。

そして、このような悪い衛生環境で次に大きな問題となるのが病気です。
乾かない服を一日中着ているため、人々はいつも風邪をひいており、それに加えインフルエンザといった感染病、皮膚病や蚤、ダニ、ノミといった寄生虫にも、人々は苛まれています。
トイレの数も、1万4000人近い人々のためには足りず、人糞がそのまま草原に捨てられ、ゴミもそこら中に散らかっており、ギリシャ政府に雇われた、1日に20ユーロで四六時中ゴミ拾いやトイレ掃除をして働く清掃員がいなければ、キャンプの衛生環境は「この世の終わり」といえるものになっているでしょう。
キャンプに住む子どもたちは、何かしらの病気を抱えています。しばらく通っていたこの家族のもとには、キャンプで生まれた生後3ヵ月の赤ちゃんがおり、生まれてこのかた、ずっと鼻炎と風邪に苦しんでいました。

物資不足
物資不足は、それに次ぐ深刻な問題で、食料も満足な食材が手に入らないため、子どもたちの栄養が偏り、1歳や2歳の急激に成長する時期の子たちであっても、平均身長を大きく下回る子たちばかりです。
野菜などは、イドメニの村まで行かなければ手に入らず、売り切れの場合は、手に入らないこともあります。
食料の配給も限られており、食事を手に入れるためだけに2時間近くも並んでやっと手に入る日もあります。

衣服に関しては、ズボンや下着が特に不足しがちで、靴も、安い靴がすぐ泥にまみれることで使えなくなります。そのため僕の所属していたNGOも含め、衣服や靴の配給は、食料配給の次に重点的に行われました。
これらは人気な物資でもあるため、配給中にすぐ混乱が起きます。そのためいつも以上に神経を尖らせて配給に臨んでいました。
民族間の争い、治安
イドメニ滞在中、私たちボランティアたちが注意しなければならなかったことが、民族間の争いに巻き込まれないようにすることでした。
3月、4月の滞在では主にアフガン人とシリア人(アラブ系、クルド系含め)の喧嘩が頻繁に起きていました。
3月の終わりは特に危険な時期で、「アフガン人がシリア人の女の子をレイプした」という噂が広がったことで、この両者の若者たちが毎晩のように線路で乱闘を行っていました。警察はもちろん止めようとはしませんでした。
数で太刀打ちのできないアフガン人は、グループになり、1人や2人のシリア人を狙って集中攻撃をするという手法をとっていたそうです。
シリア人やイラク人は、国境が閉じられた原因が、「難民としての要件を満たしていない」アフガン人がたくさんいるせいだと考えている人が多いうえ、彼らを「辺境の野蛮人」と見下しているため、アフガン人への反感が強い、というのもこの乱闘の背景にありました。
私が間違えてアフガン人にアラビア語であいさつをした時、(アフガン人の言語はファルシー語やダリ語)その難民に「アラブ人と一緒にするな!」と怒鳴られました。
対立構造の変化
状況が変わっていたのは5月、僕がイドメニを2度目に訪れた時でした。
今まではアフガン人対シリア人であった喧嘩の構図が、アラブ系のシリア人とイラク人対クルド系のシリア人とイラク人というものに変わっていました。
この背景には、シリアの内戦でクルド勢力と、アラブ系穏健派反体制勢力の「自由シリア軍」の間でも戦闘が行われていることでした。ネットのメディアで毎日見る戦闘の情報により、人々の心もどんどん荒んでいってしまいました。
小さな子どもまでが、「ここはアラブ系が住んでるから危ないよ」って言っていたのを思い出すと、今でも悲しくなります。いつでも戦争は、人々の心に憎しみしか生み出しません。

その他治安の点では、ギリシャ警察は難民たちのいざこざには全く干渉しないので、難民たちは鍵のないテントに盗みが入ることにいつもビクビクしていました。
仲良くなったクルド人の兄弟は、テントのなかであっても物が盗まれる危険があるため、弟が夜寝ている間は兄が起きていて、兄が午前中寝るという交代制をとっていました。彼らの話では、女性はレイプされる恐れがあるため、夜にトイレに行くのも怖いそうです。
現在イドメニキャンプがなくなり、難民たちは軍が運営する公式のキャンプに移りましたが、そこではこの治安という点だけは、軍がいるために少しは安心できるそうです。
しかし、民族間の喧嘩は軍の目を盗んで今も行われています。
教育
イドメニのキャンプでは、約4000人とも言われる18歳以下の未成年が暮らしていました。
その中には親がおらず、自分たちだけでここまで辿りついた子もいます。それらの子どもたちは、内戦が始まってから3年近くも学校に通っていません。イドメニのキャンプにはもちろんこれらの子どもたちを教育する施設などはなく、子どもたちは線路や道路、泥の中で遊ぶ毎日を送っていました。
これらシリアの子どもたちは「失われた世代」と呼ばれ、将来内戦からの復興を担う世代として、大きな損失があると見られています。
しかし4月9日にスペインの団体が「イドメニ・カルチュラル・センター」を開いたことで、子どもたちがアラビア語や英語、算数などを学べる場所ができました。
そこではその他にも、大人たちのためのドイツ語の授業なども存在していましたが、25m2ほどの大きさの部屋が2つあっただけなので、参加できる人は限られていたのが現状でした。
希望の消失
2016年3月8日にバルカン諸国の国境が完全に閉じられてから、毎日ギリシャからマケドニアへ行く線路をブロックすることで難民たちは抗議をしていました。
しかしマケドニア政府も今年中の国境開放はないと明言し、難民たちのバルカン諸国“黙認”のヨーロッパ諸国への旅は、ひとまずここで終えたことになりました。
難民たちは毎日食事配給の列に並び、夜は近くのテントの人たちと焚火を囲んで歌を歌うということをしていましたが、それ以外はすることがありません。
これは現在、公式のキャンプでも同じ状況です。この、「刺激のない、いつも同じような毎日」と、「後先の見えない不安」が、人々の鬱憤に繋がっていることは確かでしょう。
イドメニでは、その鬱憤が約3日に1度の割合で大きな抗議運動を起こしていました。
ギリシャ警察との間では小競り合いが起き、2016年2月29日そして4月10日の柵を破壊しマケドニアに入ろうとした暴動に繋がったと言えるでしょう。
シリア難民やイラク難民はまだ難民としてギリシャでも扱われるため、公式なキャンプに移るという選択肢もありました。しかしアフガニスタン、パキスタン、アフリカ諸国の難民は、申請を出せば強制送還になる可能性がかなり高いので、イドメニにいざるを得ないというのが現状でした。
しかし、現在公式キャンプにいる人々もヨーロッパ行きを諦めた訳ではなく、もう1度でも国境が開けば、マケドニアに難民たちが流れ込むことは目に見えています。
このように、なぜ難民たちがイドメニという最悪の環境に留まっていたのかという問いへの答えは、もし国境が開いた時にその場にいなければならないという焦燥感、さらには他の難民から聞く、公式な難民キャンプの状況もあまりいいものではないという情報で、ならここにいても一緒だと考えていた点にありました。
イドメニのキャンプでは子どもの数が異様に多かったことも先ほど書きましたが、それは子ども連れの親が多いことを示しています。
あるシリアからのクルド人難民の話では、「私たちだけであったらシリアに留まった。ヨーロッパに行くのは、ひとえに子どもたちに将来への希望を持たせてあげたいから」と話してくれたのが今でも印象に残っています。
親たちは、「失われた世代」と形容されるシリアの子どもたちの将来を少しでも明るいものにするために、ヨーロッパに行くしかないと考えているのが分かりました。
「安全で豊かなヨーロッパ」という希望を捨てきれない人々の存在が、イドメニにはあり、現在もギリシャの難民キャンプにあります。