(イドメニキャンプ活動記①はこちらから)
こんにちは。
今日はイドメニ難民キャンプの基本情報を、ご紹介します。
Contents
「イドメニ」という名前
まずイドメニという名前ですが、これは難民キャンプに接しているマケドニアとの国境検問所がある村の名前です。
人口は約400人で、主にマケドニア系の人たちが住んでいます。
最初にイドメニの村に入った時は、昼間なのに窓は雨戸も閉められ、ひっそりとしている家もあれば、庭に座りのんきにおしゃべりをしている家もあり、したたかな住民は青果市を出して難民たちに販売していたり、さらには、難民を家に無償で泊めさせてあげている家もありした(詳細はこちらのUNHCRのビデオから)。

写真のサンドイッチは、NGOの人の中では「イドメニ名物フライドポテトサンド」と呼ばれていました(笑)
まあ、この難民危機で有名になった村の人々も、捉え方は人それぞれなんですね。
イドメニ難民キャンプの基本情報
難民の出身国や人数
イドメニ難民キャンプは2016年当時、ギリシャでもアテネのピレウス港に並ぶ大規模な非公式難民キャンプでした。
一時期3月終わりは1万4000人を超えていたと言われていましたが、ギリシャ全土に軍営の難民キャンプが建設されたことから、5月中旬には9000人ほどにまで減りました。
国籍や民族は、多い順に、シリアやイラクに住むクルド人が約半数を占め、その後にアラブ系のシリア人とイラク人、その後にアフガニスタン人と続き、少数ではありますが、パキスタン人、イラン人、トルコ人、マグレブ諸国からの難民もいて、非常に多様な人たちが暮らしています。
(しっかりとしたデータはありませんので、私が難民や他のNGOに対して行った聞き取り調査の結果からの推測です)
イドメニキャンプで活動していた支援団体
キャンプの運営に対し、ギリシャ政府はほぼお金を払わず(強いて言うならたくさんいる警察官と、1日€20で働く清掃作業員くらいでしょうか)、主に「国境なき医師団」(以下、MsF)によって運営されています。
彼らはメディカルテントはもちろん、保育用のテント、食料の配給、300人が入る住居用の大テントの整備など、人的、物的リソースで要の役割を果たしています。
それ以外でも、“InterVol“、“Save the children“、“Intereuropean Human Aid Association“や、私も参加していた“A Drop in the Ocean“といった多くの国際NGOが活動をしていました。
本来指揮を執るべきはずのUNHCR(国連高等難民弁務官事務所)の姿はほとんど見ることができません。
しかし、毛布や、中くらいの1家族分のテントなどは、UNHCRの文字が入っており、多少の物資の援助や、難民申請関係のための大きなテントもあり、事務的作業はたくさんこなしていました。
やはり国連といった巨大な組織となると、官僚組織化してしまい、機動力にはかけるのかもしれませんね。あとは、イドメニキャンプを早く片付けたいギリシャ政府の顔も立てねばならず、それが活動の妨げにもなっているのでしょう。
イドメニキャンプの区割り
次はキャンプの地区割りについてです。写真を参考にご覧ください。

イドメニキャンプは、南北に通る道路と、東西を走る線路によって大まかにエリア付けされています。
SiteA
MsFやUNHCRの本部テントがある地区をSiteA。キャンプの北西に位置するここ(俯瞰図では左上)が、キャンプ中枢部と言えるかもしれませんね。

SiteB
そこから線路の北に沿って伸びる道路の、左カーブが過ぎた後の向かい側の地域(説明難しい…)をSiteB、ここはいくつかの団体により、食料配給がよく行われる場所や医療テントがある場所とも重なり、いつも人でごった返していました。
4月の終わりには難民自らが営む出店や、コンテナのトイレも設置されて、私の目からは、初期の頃に比べ一番発展した地域でした。(俯瞰図では右上)

SiteC
SiteAから線路を越え、道路の左側に見えるエリアがSiteC、ここはシリア人やクルド人が多く住むエリアで、タバコや生活用品、野菜や果物を売る小さなマーケットのようなものもあり、4月にいた時は一番活気のある地域でした。
しかし、4月10日の衝突の後(次回の記事で書こうと思います)、催涙弾を恐れ人がここからたくさん避難した関係で、5月頃にはとても静かになっていました。
私が所属していたNGOも主にここで配給を行っており、大テントのすぐ目の前で4月はキャンピングカーから、5月にはMsFによってコンテナが設置され、そこから配給を行いました。(俯瞰図では、縦に走る道路の右側)

SiteD
SiteAから伸びる道路の左手は、アフガン人が多く住むSiteDです。
ここは草原にテントが張られており、私にとってはイドメニキャンプの中で一番きれいな景色がありました。
しかし、あまりにも草原に深く入り過ぎると、蛇やボランティアが”human snake”と呼ぶ、日本語でいえば「人間蛇(つまり、あれです。人間から出る茶色い蛇みたいなものです…あとはご想像にお任せします)」ですかね、それらがうじゃうじゃいるので、あまりピクニックに適しているとは言えなそうです。(俯瞰図では、SiteAとSiteBの間の地域)

SiteE
そしてSiteCの向かい側がSiteE。ここからはマケドニアの国境フェンスはすぐ目と鼻の先にあります。4/10の衝突の際、ここのエリアに住む人の中から、催涙ガスを吸って、多くの怪我人が出ました。(俯瞰図では、縦に走る道路の左側の地域)

Train Station エリア
そして、ABCがついていない、Train Stationエリアがあり、人々は線路沿いや、駅のプラットフォーム、さらに駅舎の裏の林にテントを張っており、ここの人たちは下手すると見つけるのはかなり難しいです。(俯瞰図では、右側にある大きな五角形)

最後に…
毎日、NGOや他の独立ボランティアの人たちが食料や、物資の配給に来ていましたが、それだけでは限りがあり、食いつないでいくことはもちろん難しいです。
しかし、Western Unionという、国際送金サービスの会社がATMを開設したことにより、難民たちはイドメニの村でお金をおろすこともできました。
それで村の市場で食料を買うことでなんとか食いつないでいたのが現状です。
もしそのお金までなくなってしまったら、食料の配給がある程度しっかり行われている公式キャンプへ移動しなければなりません。
つまりは、ギリシャ政府(EUとも言えるかもしれませんが)と、国境が開く希望を捨てない難民たちの我慢比べのような様相を見せていたのが、イドメニ難民キャンプという場所でした。
次回はキャンプにおける諸々の問題をあげていきたいと思います!
今回は長くなりましたのでこの辺で。